【青木拓磨:プロレーサー】

▲写真提供:ヤングマシン

1990年代に国内外のロードレースでその名を轟かせた青木三兄弟の次男、青木拓磨氏。全日本で王座に輝いた後、世界グランプリの500ccクラスにステップアップし、これからという時に1998年のテスト中の事故で下半身の自由が効かない身体になってしまいました。

その後4輪レースへ転向し、最近ではル・マン24時間耐久レースにも参戦。また、ハンドシフトのバイクでサーキット走行を楽しむなど、2輪での活躍も再び注目されています。この連載では、青木拓磨さんの今でも溢れ続けるモータースポーツへの情熱を語ってもらいます!

人生初レースは、エントリー6台で僕ら兄弟は4・5・6位(笑)

皆さんこんにちわ。わたくし、青木拓磨と申します。昭和世代のライダーには懐かしいなと思ってくれる方も多いのではないでしょうか。バイクブーム全盛期のときに活躍したあの青木3兄弟の次男が僕になります。生まれたのは1974年の2月24日。今年で僕ももう47歳になっちゃいました。時の流れというものは早いものですねえ。

あらためてバイクとのかかわりを振り返ると、最初にバイクに乗ったのは8歳の頃。父親がポケバイを何かのきっかけで手に入れたんじゃなかったかな。それで僕ら兄弟に見せる前に倉庫かどこかに隠してたんだけど、それを僕らイタズラ3兄弟は勝手に見つけ出してエンジンかけて乗ってみちゃった記憶が(笑)。気が付いたら兄弟それぞれ1台ずつに増えていて、初めのうちはそれで広い駐車場なんかで遊んでいました。当時はまだそういったことが許されていたおおらかな時代だったんですよ。

最初はただ走らせて楽しんでいただけでしたが、そのうちレースにも出てみることになりました。それで僕ら兄弟はデビューから栄光の歴史を邁進…。なんて、そんな上手く行くわけがありません。その頃のポケバイレースは漫画化されるようにちょっとしたブームの時期。人生最初のレースなんかひどいもんでしたよ。いわゆるチビッ子初めてさんクラスみたいなレースで、エントリー6台中の僕ら兄弟は4・5・6位(笑)。見事に惨敗でした。でも、継続は力なりですね。続けていくうちに戦績は向上。最初は今は無き日光のサーキットを主戦場としていたんですが、やがて地元にも榛名モータースポーツランドが開設され、そこでひたすら腕を磨いたのでした。

3年ほどして体格的にポケバイを卒業し、ミニバイクにステップアップ。NSR50が出たときに大人に混じってレースに出させてもらったのですが、このときはブッチ切りで優勝をゲット! ここで僕は勘違いしてしまったんでしょうかね。「レースでは絶対に勝ってみせる、一番速いのは僕だぁ~」なんて気になったのでした。もっとも今になって思い返すと、大人より30kgくらいは体重が軽いんですから、そりゃ速く走れて当たり前ですよ(笑)。でもそれが大きなきっかけとなって、とにかくバイクがレースが本当に楽しく、そしてたまらくなって、そのまま青春時代に突入していったのでした。

▲一番左の少年が僕です。写真提供:ヤングマシン

世界を目指すため全日本スーパーバイクを'95・'96年と2連覇

RS250など本格的なレーシングマシンに乗り換えたのは僕が高校生だった16歳のとき。17歳で国際A級に特別昇格させてもらい、全日本GP250クラスに挑戦させてもらいました。実はこの時期、練習のために地元の群馬県・榛名村から筑波サーキットまでは「自転車」で通ってたんですよ。その頃の所属チーム“TS関東"は筑波サーキットの目と鼻の先。マシンや装備はチームに置いてあるから朝に身一つで家を出て、マシンを受け取り午後に練習して家に帰るとちょうどいい時間って感じだったんですよね。周りの人からは信じられないという反応を受けるんですけど、当時の僕としてはトレーニングにもなるしバイクも自転車も好きだったから、まったく辛くは感じなかったんです。

プロレーサーとして自覚を得たのは20歳を越えて'94年に全日本スーパーバイククラスにHRCのワークスライダーとして契約したとき。それまでもメディアには多く採り上げてもらっていましたけど、HRCと契約して初めてレースすることで食べていける職業というのがこの世にあったんだぁと感じたほど。それまでの僕としてはただレースが楽しくてやっていただけなんです。いやあ、本当に純粋なバイク好き少年のまま20歳を越えていました。

世界を意識し始めたのも、この頃でしたかねえ。全日本GP250を走っていた頃はWGPなんてまだプラウン管の中の遠い世界のことと思っていました。しかし、兄と弟が一足先に海外挑戦を始めたのを目の当たりにし、僕自身ワイルドカードで出場した'95年日本GPの500クラスでグランプリライダーを相手に3位を得ることができたことで、フル参戦したいという気持ちが強くなっていきました。そのため世界に挑むチケットを手にするために全日本スーパーバイクは'95・'96と2年連続でチャンピオンを獲得。特に'96年は本気になってどんな条件のレースでも勝つことを目標にしていました。前年は雨のレースでの勝利が多かったためにタイヤのおかげだという評価もあったので、それを払拭したかったんですよね。

▲1996年全日本スーパーバイククラス。写真提供:ヤングマシン

'98年2月5日は僕の第2の誕生日

そして、ようやく'97年に念願のWGP500クラスに参戦開始することができるようになりました。でも、僕が乗ったのはM・ドゥーハンたちが乗った4気筒のNSR500とは異なるNSR500Vという2気筒のマシン。それの市販化に向けた先行開発という役割を兼ねてでした。2気筒は4気筒にパワーで劣り、マシンの開発リソースも4気筒が優先されていたため苦戦することも多かったのですが、確実に上を目指していってシーズンが終了してみれば世界ランキングで5位とマシンハンデや初年度ということを考えると大満足の結果。翌年はさらに上を狙えるという確かな手応えを得たのでした。契約更改時にドゥーハンが僕には4気筒を与えないことを条件にしたと伝え聞いたのですが、僕としては何だよそれと思いつつも世界チャンピオンがそこまで僕を警戒しているのかと驚く複雑な気分の中、500Vのままでも全然構わないという気になっていたんです。'97最終戦で優勝争いを演じ3位に入った翌年の先行開発型500Vは、パワーで負けても軽さと旋回速度で勝つというこのマシンの狙いにぴったりマッチしていました。これなら'98年はシーズン通して優勝争いに絡むことができるという自信を得ていたのです。ですが…。

忘れもしない'98年の2月5日。その日は突然にやってきました。僕はその日、'98年に向けたテストを行っていたのですが、不慮の事故に遭って脊椎を損傷し下半身の自由が効かない身体になってしまいました。大好きだったバイクに乗れなくなったのはショックでしたが、でもこうなってしまったものは仕方ない。僕はこの日を第2の誕生日と位置付け、この身体でもどうやったらレースを続けていけるかということをまず最初に考えました。2輪がダメでも4輪があるじゃないかということで、事故から3か月ほどの病院生活からは手のみでアクセルやブレーキを操作できる装置を付けたクルマを自分で運転して退院。

そして今の身体でも戦えるレースを模索していき、アジアンクロスカントリーラリーやダカールラリーへの参戦が実現。僕は最初に買ったクルマが四駆だったりするもので、けっこうオフロードも好きだったんですよ。前例のない下半身不随のドライバーに対する競技ライセンス発行のために時間がかかりましたが、事故から9年の長きを得て、ようやく日本国内のレースにも全日本GT選手権で参戦の夢が実現。「夢を捨てずに頑張り続ける」との信念を持ち続けていれば、いつかかなうということを覚えました。そのおかげで、ついに今年の8月にはル・マン24時間耐久レースという世界最高峰の夢の舞台にも挑戦することができました。

そのル・マンで真夜中のコースを極限スピードで走っているときに、あらためて気付いたんですよ。若かったころはひたすら勝つことを考えてレースをやっていたけど、僕が本当に好きだったのは勝ち負けよりもレースで走っている瞬間そのものだったんだなって。僕は"Let'sレン耐"というレンタルミニバイクを使った初心者向け参加型のレースをもう17年も主催しているのですが、それも僕が体験したバイクの楽しさ、レースの楽しさを皆さんにも分かち合ってもらえたらという想いからなんです。

そして、2019年には兄弟や応援してくれる皆さんの力によってハンドシフトを組み込んだCBR1000Rに乗り、鈴鹿サーキットを22年ぶりに純粋な2輪のオートバイで走ることができました。その後、CBRも最新型で217psを誇るRR-Rや、MotoGPマシンの公道版RC213V-Sで走る機会にも恵まれ、現役WGPレーサーだった頃のバイクに対するワクワク感を再び味わっている最中です。公道でも3輪にはなってしまいますが、カンナム・スパイダーで熊本・阿蘇をもう何度も仲間たちとツーリングするようになりました。

やっぱりバイクには4輪にはない楽しみがありますね。今の僕はLet'sレン耐でもCBRと同じハンドシフトシステムを組み込んだモンキー125やグロム125で参加者に混じって走ることもあるんです。WGPやMotoGPとは速さこそ違いますが、根底に流れているバイクやレースの楽しさは変わりません。気が付けば1時間くらい連続走行していることも! バイクに対する情熱はけっして失っていないつもりでしたけど、自分でも再び乗れるようになって、その想いはさらに強くなりました。

そんな僕が、これからWebikeを通じて皆さんにも、あらためて再認識したバイクやレースの楽しさを伝えていきたいと思います。どうぞ、よろしくお付き合いください。

▲1997年日本グランプリ。写真提供:ヤングマシン

青木拓磨のモータースポーツチャンネル

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