ヤマハ発動機は、報道関係者向けのニュースレターにて、夢を追い、想いをつなぐリアル・アドベンチャー「テネレ」の原点とその歴史を紹介した。

EICMA 2018でデビューし、2020年、iFデザインアワードやRed Dotアワードなど世界的なデザイン賞を獲得したモーターサイクル「Tenere 700」は、ヤマハ発動機がパリ・ダカールラリー参戦を通じて培ってきたアドベンチャースピリットを受け継ぐ最新モデル。その開発思想は、まさに原点回帰。地平線の果てまで、どこへでも行くことができる“ホンモノ”の一台をめざし、パワフルで扱いやすいエンジン、強靭で軽量な車体とタフな足まわりによる優れたオフロード走破性、実用性の高いツーリング機能を実現している。

大きく様変わりした現在のダカール・ラリーとは無縁だが、40年近くにわたってアドベンチャーライダーとともにあり、遠く異境の地に夢を追い続けるYamaha Tenere。その原点を探る。

以下ニュースレターより


▲1980年第2回パリ・ダカールラリー。オリビエとともにXT500で出場したヌブーが2年連続優勝を果たした

夢:“何もない”砂漠の幻の木を求めて

Tenereとは、アフリカ・サハラ砂漠の中南部一帯を指す遊牧民の言葉(トゥアレグ語)で、まさに砂漠のなかの砂漠、“何もないところ”という意味です。風と砂が織りなす果てしない砂丘地帯の風景はサハラの宝石とも讃えられますが、その“何もない”砂漠に、かつてアカシアの木がぽつんと一本だけ生えており、塩を運ぶキャラバンのランドマークとなっていました。

残念ながら、この木は1973年に失われ、金属製のモニュメントだけが残されたそうですが、当時の若者たちにとって噂の真偽はどうでもよかったのかもしれません。幻のテネレの木を探す、その夢とロマンが未開の大地・アフリカへ旅する動機になったと言われています。

1979年にスタートしたパリ・ダカールラリーもそのひとつ。当時、フランスのヤマハ総代理店ソノート社に勤めていたジャン・クロード・オリビエ(後のヤマハ・モーター・フランス社長)は、友人でもある主催者、ティエリー・サビーヌの「冒険の扉に連れて行ってやろう。ただし、運命に挑戦するその扉を開くのは君自身だ」という呼びかけに応え、自らを含む4名のライダーと4台の「XT500」からなるチームを率いて第1回大会に参加しました。

1976年発売のXT500は、アメリカ西海岸で人気を集めていたエンデューロレース用コンペティションモデル「TT500」とともに開発され、500cc・4ストローク・単気筒エンジンをセミダブルクレードルフレームに搭載。力まかせに大地を突っ走る、トルクフルで軽量・タフなデュアルパーパスモデルでした。

そのため、ソノート・ヤマハチーム以外にも数多くのライダーがXT500でパリ・ダカールに出場し、そのなかのひとり、シリル・ヌブーが第1回、第2回大会を連覇。しかも第2回大会では、二輪部門上位4台、完走25台のうち11台をXT500が占め、10,000kmにおよぶ難コースにおける性能、信頼性の高さを世界に知らしめました。

▲1985年パリ・ダカールラリー。オリビエは660ccに排気量アップしたXT600Tenereで2位表彰台を獲得

▲1983年に発売された最初のXT600Tenere。30L大容量タンクなどが特徴

パリ・ダカール:砂漠という別の惑星を走る冒険

1980年、パリ・ダカールラリーはFIA/FIM公認の国際レースとなり、参加台数が200台、300台と飛躍的に拡大しました。そこでヤマハは、大会出場者や砂漠の旅を夢見るライダーたちの期待に応え、XT500を「XT550」へとモデルチェンジ。さらに1983年、大容量30Lタンク、フロントディスクブレーキ、ベルクランク型モノクロスサスペンション、アルミ製リアアームなどを装備し、初めてTenereの名を冠した「XT600 Tenere」を発売すると、その後10年間、欧州だけで61,000台を超えるロングセラーになりました。

またレースの名声が高まるにつれて、二輪・四輪各社のファクトリーチーム参入が相次ぎ、レースの高速化を促進。ヤマハもソノート社の要請を受けてレースマシン開発に関与し、しだいにその度合いを深めていきました。しかしたびたび上位に進出しながら、3度目の優勝には届きません。そこでオリビエは、自ら「FZ750」をベースとした直列4気筒マシンを作り上げ、1986年のパリ・ダカールに参戦。車重に苦しみながら12位完走を果たし、ヤマハ本社に強烈なメッセージを示したのです。

それによってヤマハは、これまで市販車部門が行なっていたマシン開発をレース専門部署に移し、単気筒エンジン技術の粋を集めたファクトリーマシン「YZE750 Tenere」を投入。1988年、89年連続で2位表彰台を獲得しました。さらにその間、次世代を担う新しい力を求め、オリビエは22歳のステファン・ペテランセルをスカウト。ヤマハも単気筒「Tenere」に代わる直列2気筒の市販車「XTZ750 Super Tenere」を開発しました。

そして1991年、パリ・ダカール参戦4年目のペテランセルと開発2年目の2気筒ファクトリーマシン「YZE750T Super Tenere」は、圧倒的な速さ、強さを発揮して優勝。その後、1998年までの7年間(1994年不参加)でヤマハ7勝/ペテランセル6勝という記録を残し、パリ・ダカールを舞台とした「Yamaha Tenere」の大冒険は終わりを告げました。

そのチームリーダーであり、自ら9回の出場実績(完走6回、2位1回)を持つオリビエは、その情熱をこう語っています。
「バイクに乗って砂漠を走る……。それは私が望んでいたことだ。砂漠とは私にとって別の惑星であり、パリ・ダカールラリーに参加することは、どこかの惑星でバイクを走らせるため宇宙船に乗るようなもの。時に肉体的な疲れや痛み、精神的な苦しさに耐えることもあったが、味わったことのない喜びや嬉しさから、ヘルメットのなかでふと微笑んだり、大声で叫んだり、歌を口ずさんだりしたよ」

▲1998年、ヤマハにとって20世紀最後のパリ・ダカールラリー。270度クランク採用のXTZ850TRXで、ペテランセルがヤマハに9勝目をもたらした

270度クランク:ペテランセルの遺産

「パリ・ダカールはずっと私の夢だった。最初のYamaha Tenereは単気筒で600ccしかなかったが、やがて660cc、750ccになり、2気筒になった。より大きく、より速く。ステップ・バイ・ステップのプロセスだ。それは6勝を挙げた私も同じこと。Tenereは、私にとってアドベンチャーそのものだった」とペテランセル。

無粋なことを言えば、最後の2勝は市販車ベースの「Tenere」でも「Super Tenere」でもないコンペティションマシン「XTZ850TRX」によるものですが、これには現在の「XT1200Z Super Tenere」や「Tenere 700」まで受け継がれる重要なキーテクノロジーが搭載されていました。トルクのムラをなくし、リニアなエンジン特性を引き出す「270度クランク」です。

砂漠で良好なトラクションを得るために開発されながら、2気筒ロードスポーツモデル「TRX850」(1995年発売)で初めて採用され、1996年からパリ・ダカールマシンに逆導入された異色の経歴を持つ、ペテランセルの遺産ともいうべき技術。ヤマハは、こうして得たさまざまな知見を、40年近くにわたって市販車にフィードバックしてきました。
それこそが、「XT1200Z Super Tenere」「Tenere 700」を「Tenere」たらしめる由縁なのです。

Video: ヤマハ・テネレ700で走る、モロッコへのグランドツーリング

▲日本の著名なフォトグラファー・桐島ローランドさんとジャーナリスト・河西啓介さんによる、Tenere700でヨーロッパからモロッコまで駆け抜けたグランドツーリング旅紀行

Message from the Editor
昨年、Tenere700で欧州・アフリカ大陸を6日間走る機会があり、同行していたフォトグラファーの桐島ローランド氏の一言が印象的でした。彼は走り終えた時に“Tenere700だったら世界中どこへでも行けますね”と。そうなんです、Tenereは男の冒険心をくすぐるモーターサイクルなのです。
堀江直人

情報提供元 [ ヤマハ発動機 ]

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