スズキDR250SHで走るサハリン(1991年)第3回目

前回:スズキDR250SHで走るサハリン(1991年)第2回目

【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】

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ホルムスク峠を越える

サハリンの第3日目。ガイドが1人、変わった。高校生のサーシャから、女子大生のジーニャになった。ジーニャはキセニアの同級生で、同じく日本語の勉強をしている。キセニアの将来の夢は、日本語か英語の先生になることで、ジーニャの夢は、日本語の通訳になることだという。

210713_kasori_IMG_2545-680x510.jpg▲ユジノサハリンスクを出発

210713_kasori_IMG_2555-680x510.jpg▲ホルムスクへ

ユジノサハリンスクからホルムスク(旧真岡)へ。距離は100キロほど。その途中でホルムスク峠を越える。峠はロシア語で“ペリェバオ”。ホルムスク峠は日本時代には、熊笹峠と呼ばれていた。熊笹峠の名前どおり、峠の周辺は一面、クマザサで覆われている。見晴らしのいい峠で、日本海が見渡せる。

210713_kasori_IMG_2556-680x454.jpg▲ホルムスク峠の笹原を走る

旧熊笹峠は日本軍とソ連軍の激戦の地。昭和20年8月15日の終戦の後、旧真岡に上陸しようとしたソ連軍に対して、峠に陣地を構えていた日本軍は激しく高射砲を浴びせかけた。そのため、上陸したソ連軍に徹底的にやられた。今でも残っている峠のトーチカには、日本兵の死体が足の踏み場もないほど折り重なっていたという。

210713_kasori_IMG_2565-680x510.jpg▲ホルムスク峠のソ連の戦勝記念碑

210713_kasori_IMG_2566-510x680.jpg▲ホルムスク峠の旧日本軍の塹壕跡

ホルムスク峠を越えてホルムスクの町に入っていく。ここには日本時代の王子製紙の工場が残っている。

210713_kasori_IMG_2579-680x510.jpg▲ホルムスク峠を越えてホルムスクへ

210713_kasori_IMG_2580-680x510.jpg▲ホルムスクの旧王子製紙の工場跡

サハリンでのタンデム

ホルムスクからは、北に50キロほどのチェーホフ(旧野田)へ。日本海の砂浜で昼食にする。オホーツク海と違って、日本海には波ひとつない。まるで湖のような、トローンとした海だ。外海のオホーツク海と内海の日本海の違いを見る。

210713_kasori_IMG_2581-680x454.jpg▲日本海の海岸線を一望!

210713_kasori_IMG_2582-680x422.jpg▲チェーホフ(旧野田)への道

210713_kasori_IMG_2583-680x454.jpg▲日本海の砂浜での楽しい昼食

210713_kasori_IMG_2584-680x454.jpg▲チェーホフ(旧野田)に到着

チェーホフで折り返し、ユジノサハリンスクへと引き返す。そこで好奇心あふれるキセニアとジーニャは、恥ずかしげな表情を浮かべながら「バイクに乗せてもらいたいの」という。

「喜んで!」ぼくがキセニアを、カメラマンの向後さんがジーニャを後に乗せて走った。バイクに乗るのは初めてだというキセニアは、ちょっぴり緊張した表情だ。ぼくもタンデムの経験はほとんどなく、女性を乗せるのは初めなので、キセニア以上に緊張した。
キセニアは怖いのだろう、体を固くし、ギュッとぼくにしがみついてくる。彼女の胸のふくらみを背中で感じながら走っていると、「タンデムって、いいなあ!」と思ってしまう。

210713_kasori_IMG_2585-680x471.jpg▲カソリはキセニアとのタンデム

210713_kasori_IMG_2586-680x454.jpg▲向後さんはジーニャとのタンデム

210713_kasori_IMG_2587-680x454.jpg▲我々をサポートしてくた「サハリン3人組」

「ドスビダーニア、サハリン!」

サハリンの第4日目。ユジノサハリンスクから北東へ。オホーツク海に面したスタロドブスコェ(旧栄浜)へ。広々としたジャガイモ畑の中を走る。ジャガイモの白い花が咲いている。ビート畑もある。ホルスタインを放し飼いにした牧場を見る。北海道の北見に似た風景だ。

サハリンの日本海側は山々が海に迫り、平地はほとんどないが、オホーツク海側は平坦で開けている。
ソーコル(旧大谷)の町を通る。ここには軍の基地がある。崩れかかった兵舎や、廃車寸前のオンボロ軍用トラックを見る。

1983年9月1日、ソーコル基地から飛び立ったミグ戦闘機が大韓航空のジャンボ機を撃墜し、世界中に大きな衝撃を与えた、ソーコル(旧大谷)は現代史の現場なのだが、朽ちかけた基地は“歴史の舞台”の華やかさからはほど遠い姿だった。

オホーツク海に出る。海岸近くは広々とした湿原。釧路湿原に似ている。その中を流れる幅100メートルほどの川がすごい。マスが群れをなして上ってくる。川面は盛り上がり、マスはあちこちで跳び跳ねている。

210713_kasori_IMG_2588-680x454.jpg▲ここはオホーツクのサケ・マスの一括採捕場

オホーツク海の海岸からユジノサハリンスクに戻ると、「サハリン州立郷土博物館」を見学。日本時代の「樺太庁博物館」そのままの建物だ。入口には樺太神社(豊原神社)の狛犬。館内には「大日本帝國 境界」と彫り刻まれた北緯50度線の境界石が置かれている。それを見て、次の「サハリン」では、「ぜひとも北緯50度線を越えよう!」と思うのだった。

210713_kasori_IMG_2589-680x510.jpg▲「サハリン州立郷土博物館」を見学

210713_kasori_IMG_2590-510x680.jpg▲樺太神社(豊原神社)の狛犬

210713_kasori_IMG_2591-510x680.jpg▲「大日本帝國 境界」と彫り刻まれた境界石

あっという間に過ぎていったサハリンでの日々。
レストランで、キセニア、ジーニャと一緒に、最後の食事。ぼくたちのお別れパーティーだ。
キセニアもジーニャも、ユジノサハリンスク郊外の団地に住んでいる。そんな2人をバス停で見送った。
「ヴィ ムニュ スラビーチシ」と、キセニアに言いうと、彼女は赤くなってうつむいた。それはオホーツクの浜辺で、昼食を食べながら彼女に教えてもらったロシア語で、「私は あなたが 好きです」の意味。
バスが来る。2人が乗る。

「ドスビダーニア(さようなら)」サハリンで出会った人たちが忘れられない。
ユジノサハリンスクの団地の野外パーティに招き入れてくれて、一緒になって踊った人たち。青空市場で野菜や果物、花を売っているオバサンたちとは、言葉は通じないのにもかかわらず、おおいに会話を楽しんだ。
街道で出会った何人ものライダーたち。サハリンのライダーたちは、羨ましそうな目でDRを見た。オホーツク海に流れ出る川でマスを釣っていた釣人たちとも言葉をかわした。

心やさしき、サハリンの人たちよ!

8月19日、ユジノサハリンスクからホルムスクへ。サハリンでの全行程1000キロを走り終え、2台のスズキDR250SHとともに、ロシア船の「ユーリー・トリフォーノフ号」に乗り込んだ。

船がホルムスク港の岸壁を離れると、甲板に立ちつくし、サハリンに手を振りつづけた。そして「ドスビダーニア(さようなら)、サハリン!」と叫んでやった。

210713_kasori_IMG_2592-680x510.jpg▲ホルムスクから稚内へ

210713_kasori_IMG_2593-680x510.jpg▲離れゆくホルムスク港

これは後日談話になるが、サハリンから小包が届いた。キセニアからの贈り物で、中にはきれいな刺繍のテーブルクロスと、カラフルな木製のスプーンが入っていた。

賀曽利隆

賀曽利隆 冒険家・ツーリングジャーナリスト

投稿者プロフィール

1947年東京生まれ。
1968年から2年間をかけてアフリカを一周したのを皮切りに、アジア、ヨーロッパ、オーストラリア、北アメリカ、南アメリカと、バイクで世界の6大陸を駆けめぐる。
1975年の結婚後も旅をつづけ、赤ん坊連れでの「シベリア横断→サハラ砂漠縦断」を成しとげる。
1980年、鈴木忠男さん、風間深志さんとバイクでキリマンジャロ挑戦。1982年には風間深志さんと「パリ→ダカールラリー」に日本人ライダー初の参戦を果たす。
1987年~1988年には「サハラ砂漠往復縦断」を成しとげる。
「30年代編日本一周」以降、10年ごとの「年代編日本一周」を繰り返し、2018年12月31日には1年4ヵ月に及ぶ「70代編日本一周」を終えた。
「年代編日本一周」とは別に、「島めぐり日本一周」、「温泉めぐり日本一周」、「林道日本一周」の「テーマ編日本一周」もおこなっている。2006年~2007年の「温泉めぐり日本一周」では1年間で3,063湯の温泉(温泉地)に入り、ギネスの世界記録に認定されている。『ツーリングマップル』の「東北」担当で、東北の道という道を精力的に走りまわっている。モットーは「生涯旅人!」

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