
【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
パリを出発!
1987年11月26日。意気揚々とした気分でスズキの200ccバイク、SX200Rとともに、フランスのパリのシンボル、エッフェル塔の前に立った。さー、「サハラ砂漠縦断」の開始だ。SX200Rには特製の35リッタータンクを搭載している。
1982年に参戦した「パリ・ダカールラリー」から5年目、あの時と同じようにコンコルド広場からシャンゼリゼ通りを走り、凱旋門をグルリと回った。環状線に入ると、N10(国道10号)を南下した
ピレネー山脈を越えてフランスからスペインに入ると、首都マドリッドを通り、スペイン南端のアルヘシラス港へ。フェリーでジブラルタル海峡を渡った。3時間ほどで、モロッコのタンジール港に到着。カソリ、アフリカ大陸に立った。
SX200Rを走らせて、タンジールの町に入っていく。狭い路地が迷路のように入り組むメディナ(旧市街)のホテルに泊まった。
「アラーフ・アクバル(アラーは偉大なり)」
すぐ近くのモスク(イスラム教寺院)のスピーカーからは、礼拝の声が聞こえてくる。 SX200Rをガレージであずかってもらい、さっそくメディナ内を歩きまわる。心が踊る。サハラの旅の第一歩だ。
人波をかきわけ、かきわけしながら歩く。市場に行く。野菜や果物、肉、魚と食料品が山と積まれている。ウシやヤギ、ヒツジの頭が並んでいる。羽をむしりとられたニワトリが、店先にぶらさがっている。いかにも地中海世界らしいオリーブの漬物が山積みされている。何種類もの香辛料、ミントの青々した葉。むせかえるような匂いと人いきれに圧倒されてしまう。
食堂に入り、クスクスを食べた。クスクスは荒挽きした麦を蒸し、その上に羊肉や野菜の入った煮汁をかけたもの。ポピュラーなマグレブ料理だ。マグレブとはアラビア語で「西」を意味するが、ふつうはチュニジア、アルジェリア、モロッコの3国を指す。
夜はタバコの煙とミンティーの香りが充満するカフェに入った。ミンティーとは緑茶にミントの青い葉を浮かべた甘ったるいお茶。中国製の緑茶が使われている。スペインからジブラルタル海峡を越え、イスラム教のモロッコに入ったとたんに、ビールやワイン、ウイスキーといったアルコール類は姿を消した。カフェの一角では、マグレブの先住民族のベルベル族の人たちが、楽器を奏でながら歌っている。哀愁を帯びた歌が胸にしみた。
アトラス山脈の大嵐
モロッコからアルジェリアに入ると、第2の都市オランを通り、首都のアルジェへ。
アルジェから南下し、サハラ砂漠を目指す。50キロ南のブリダの町を過ぎると、アトラス山脈に入っていく。マロニエの並木道。出発点のパリではすっかり落ち葉になっていたが、ここではまだ、黄色くなった葉をつけている。
渓谷に沿って、急勾配の峠道を登っていく。あえぎあえぎ登る大型トラックを3台、4台とまとめて抜いていく。やがて標高1240メートルの峠に到達。アルジェリアのアトラス山脈は、地中海側のアトラス・テリアンと、サハラ砂漠側のアトラス・サハリアンの2本の山脈に分かれているが、まずはそのうちのアトラス・テリアンの峠に立った。峠上にSX200Rを止め、幾重にも重なりあった山並みを眺めた。
アトラス山脈の2本の山並みの間は、オートプラトーと呼ばれる平坦な高原地帯。そこを貫く舗装路を南下するにつれ、みるみるうちに緑は薄れ、ヤギやヒツジをひきつれた牧畜民の姿を見かけるようになる。やがて「ラクダに注意」とか「砂に注意」の標識が見えてくる。
前方にはアトラス・サハリアンのゆるやかな山並み。天気が急変し、空にはベッタリと黒雲がはりついている。それは当然、北の地中海から流れてくる雨雲だと思った。ところが標高1271メートルのアトラス・サハリアンの峠を越えたとたんに、ものすごい雨が降り出した。なんと雨雲は北の地中海からではなく、南のサハラ砂漠から押し寄せていた。
たたきつけるような雨。雨のヘルメットを打つ音がすごい。黒雲で覆いつくされた大空を稲妻が駆けめぐる。おまけに嵐のような強風。雨と風にもみくちゃにされながら走る。下りカーブでは強風にあおられ、まったくハンドルが切れず、峠道を登ってくるトラックとあやうく正面衝突するところだった。
雨具を着る間もない豪雨に、ずぶ濡れになって走る。アトラス・サハリアンを越えるとサハラ砂漠になるが、サハラは一面、水びたしだ。ふだんは一滴の水も流れていないワジ(涸川)には、赤茶けた濁流がゴーゴーと渦を巻いていた。ぼくは信じられないような光景を見た。サハラが「来られるものなら、来てみな!」と言っているかのようだった。
アトラス・サハリアンの麓の町、ラグアットに着くと、町中が水びたしだ。「マルハバ」というホテルに泊まると、さっそく着ているもの全部を脱ぎ、部屋いっぱいにずぶ濡れになったウエアや荷物を広げて干した。
サハラ砂漠の大砂丘群
翌朝はまるで何もなかったかのような晴天。空には一片の雲もない。ラグアットからさらに南へ、点在するサハラのオアシスに寄っていく。「サハラ」はアラビア語の荒れはてた土地を意味する「サーラ」からきているが、行く手にはまさにその言葉どおりの風景が広がっている。風が強くなる。砂がアスファルトの上を流れていく。小石が「パシッ、パシッ」と音をたててヘルメットに当たる。
アルジェから700キロ南のガルダイアに近づくと、突然、パックリと口をあけた大きな窪地が現れ、その中に吸い込まれるように下っていく。下りきったところがガルダイアの町。すり鉢の底のようなオアシスには、青々としたナツメヤシが茂っている。7つの丘には、モスクを中心に、びっしりと家々が建ち並んでいる。
丘の上にあるホテルに泊まると、さっそく町を歩いた。露天の青空市場には色とりどりのカーペットが広げられている。青空市場で目についたのは「サハラのバラ」だ。それはバラの花そっくりの石で、サハラの砂の中で石膏や方解石が結晶したものだという。なぜ、どうしてといいたくなるほどにバラの花に似ている。
ガルダイアから次のオアシスの町、エルゴレアに向かう。100キロほど南に走ると、金色に輝く砂丘群が見えてくる。サハラ砂漠でも最大級の砂丘群、グラン・エルグ・オクシデンタル(西方大砂丘群)の東端に来たのだ。
サハラは世界最大の砂漠。東はエジプト、スーダンの紅海沿岸から西はモーリタニア、西サハラの大西洋岸まで、東西5000キロもの広さで広がっている。さらにサハラは紅海対岸のアラビア半島からイラン、アフガニスタン、パキスタン、中国西部のタクラマカン砂漠、モンゴルのゴビ砂漠と広大なアジアの砂漠地帯につながっている。
日本語で「砂漠」というと、この西方大砂丘群のような砂丘を連想するが、実際には砂丘の連なる砂の砂漠はそれほど広い面積を占めているわけではない。サハラ砂漠でいうと、全体の10分の1ぐらいでしかない。それよりも草が地を這うようにはえ、背の低い木々が見られるような土の砂漠、一面に礫がばらまかれたような石、もしくは岩の砂漠の方がはるかに一般的だ。
西方大砂丘群に入ると、風が強くなった。ザーザー音をたてて砂が流れていく。やがて砂嵐の様相になった。砂のカーテンの向こうから、ライトをつけたトラックが急に現れたりすると、冷やっとする。
それと、怖いのは砂溜まりだ。アスファルトの上に10メートルから20メートル、大きいのになると40メートルから50メートル近くにわたって砂が溜まっている。砂といっても、やわらかくはない。高速で突っ込むと、まるで岩か何か、固いものにぶつかったような衝撃を感じる。車が砂溜まりに乗り上げ、横転するといった事故は、サハラでは珍しいものではない。
アルジェから1000キロ南のエルゴレアでもひと晩、泊まり、さらに南へ。前日とはうってかわって、ほぼ、無風状態。絶好のサハラ日和だ。サハラ縦断路の両側に砂丘群が見えてくる。朝日を浴びた砂丘は、この世のものとは思えないほどの美しさ。まるで磁石に吸い寄せられるかのように、砂丘の下までSX200Rを走らせる。
高さ200メートルほどの大砂丘に登った。砂丘の斜面に自分のブーツの跡を残していく。砂丘の頂上付近は這いつくばるほどの急傾斜。ザラザラ砂を崩しながら、ついに頂上に立った。
大砂丘の頂上周辺は、雪山の稜線を思わせた。カミソリの刃のようなリッジになっている。はるか下の方にSX200Rが見える。西方大砂丘群はうねうねと際限なくつづき、その中にサハラ縦断路がひと筋の線になって延びている。とてつもなく大きな風景。あたりはシーンと静まりかえり、もの音ひとつ聞こえない。
大砂丘のてっぺんで、ぼくは「サハラだ~!」と、大声で叫んでやった。
エルゴレアからティミムーン、アドラルと通り、アルジェから1500キロ南の最奥のオアシス、レガンまでやってきた。地中海岸からずっとつづいた舗装路はここで途切れる。
南のマリ国境に近いボルジュモクタールまで650キロ、その間は「デザート・オブ・デザート(砂漠の中の砂漠)」といわれるほどのタネズロフ砂漠。オアシスはないし、一木一草もはえていない。一歩、間違えれば命を落とす死の世界が延々と広がっている。
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