賀曽利隆の「Vストローム1000と街道を行く!」会津街道編(2)

【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】

前回:賀曽利隆の「Vストローム1000と街道を行く!」会津街道編(1)

会津若松探訪へ

会津街道の中心、会津若松宿に入っていく。町の入口には滝沢本陣。江戸時代、会津藩の歴代藩主が参勤交代で江戸に旅立つ時、ここで休息し、旅支度を整えたという。

▲会津若松の滝沢本陣

▲滝沢本陣の内部

大名行列は滝沢本陣を出るとすぐに滝沢峠を登り、さらに沓掛峠、黒森峠、勢至堂峠と峠を越えた。奥州街道の白河宿まで、会津街道は峠越えの連続なので、大名の旅もさぞかし大変なことであったであろう。

歴代藩主の愛用品などが展示されている滝沢本陣を見学し、滝沢本陣からまっすぐ下っていくと、道の両側には蔵が建ち並んでいる。ここは会津街道(白河街道)の「滝沢の町並み」で、会津若松の見どころになっている。

▲会津若松の「滝沢の町並み」

さらにそのまままっすぐ下り、会津若松駅前へ。そこで街道旅の相棒のスズキV-ストローム1000を止めた。さー、「会津若松探訪」の開始だ。

会津若松のシンボル、鶴ヶ城

▲鶴ヶ城の堀を見る

まずは城下町、会津若松のシンボルの鶴ヶ城に行き、天守閣に登った。目の前には360度の大展望。そこから町並みを見下ろしていると、会津若松が盆地の町だということがよくわかる。

▲鶴ヶ城の天守閣

町並みをぐるりと取り囲むように、山並みが途切れることなくつづいている。磐梯山が見える。飯豊連峰の山々が見える。南会津の山々は幾重にも重なり合って越後へ、奥日光へとつづいている。今、越えてきた滝沢峠の山並みがすぐ近くに見える。

只見川と合流した阿賀川が日本海に向かって流れ出るあたりだけが、スーッと山の高さを低くしている。

▲鶴ヶ城の天守閣から見下す会津若松の町並み

会津は他所の世界とは隔絶された世界。いわば独立国のようなものだ。会津人はどこへ行くのにも、この屏風のように立ちふさがる山並みを越えていかなくてはならない。「峠こそ会津の生命線!」だと、鶴ヶ城の天守閣で実感するのだった。

鶴ヶ城の天守閣を降りると、城内の茶室「麟閣」で抹茶を飲んだ。茶菓子の「薯蕷饅頭」が品があって美味だった。

歴史を感じさせる七日町通り

次に会津若松の人気スポットの七日町通りを行く。造り酒屋や民芸品店、駄菓子店、絵ローソク店、会津漆器の店などが並ぶこの道が坂下宿から新潟へとつづく会津街道になる。会津若松の積み重なった歴史の古さを感じさせる七日町通り。ここでは白壁の土蔵が目を引く。JR只見線の七日町駅の斜め前にある食事処「渋川問屋」で会津の郷土料理を食べた。

▲会津若松の白壁の商家

▲会津若松の七日町通りを行く

▲七日通りの食事処「渋川問屋」

▲食事処「渋川問屋」の「祭り御膳」

会津街道の七日町通りは国道252号になる。会津若松から新潟までの会津街道は越後に通じているので越後街道と呼ばれるが、国道252号は会津若松の市街地を抜け出たところで国道49号に合流し、阿賀川を渡ると会津坂下町に入っていく。

そして旧道で「会津街道(越後街道)三大宿場」のひとつといわれる坂下宿に入っていく。街道沿いには土蔵造りの味噌、醤油の醸造店。暖簾には「創業寛政貮年」と染め抜かれている。寛政2年といえば1790年。坂下宿の歴史の古さを感じさせる。

▲坂下宿の老舗の醸造店

「会津ころり三観音」をめぐる

▲「会津ころり三観音」の中田観音

会津坂下からは坂下街道の県道22号を南に走り、「会津ころり三観音」のひとつ、中田観音に行った。「会津三十三観音」の中でも「会津ころり三観音」は特別な存在で、お参りすると、苦しむこともなく「ころりと死ねる」とただ今、人気沸騰中。

この中田観音と会津街道の塔寺宿の立木観音、野沢宿に近い馬追観音が「会津ころり三観音」になっている。

坂下宿を抜け出ると、いったん国道49号に出て、すぐに右に入る。そこが塔寺宿だ。ここでは「会津ころり三観音」の2番目、立木観音を参拝する。多くの参拝者でにぎわっていたが、若い女性の姿が目についた。「ころり」と大往生してあの世に行きたいというのは年齢性別に関係なく、老若男女、誰もの願いなのだろう。

▲「会津ころり三観音」の立木観音

塔寺宿はそのまま気多宮宿へとつづき、県道43号で鐘撞堂峠を越える。峠を下った分岐では左折し、さらに左折し、只見川河畔の舟渡宿に到着。只見川にかかる橋は、昔は何隻もの舟を対岸まで並べ、その上に板を渡した板橋だった。大雨で渡れなくなると、舟渡宿は天気待ちの旅人であふれかえったという。只見川を渡った対岸は片門宿になる。

▲会津街道の気多宮宿

▲会津街道の鐘撞堂峠を越える

▲舟渡宿と片門宿の間を流れる只見川

次の本名宿を過ぎると束松峠を登っていく。狭路の峠道を登っていくのだが、峠の手前で自動車道はプッツンと途切れてしまう。その地点で折り返し、本名宿から国道49号の藤峠を越えた。

▲束松峠下の本名宿

新会津街道といってもいい磐越自動車道は束松峠の真下を束松トンネルで抜けている。これは各地で見られることだが、最新の高速道路が旧街道の峠を長大なトンネルで貫いている。

会津街道が険しい束松峠を避けて藤峠を経由するようになったのは明治15年のことだという。にぎわった本名宿もそのためすっかり寂れ、人影もまばらになった。そこで地元民は昔の賑わいを取り戻そうと、独力で束松峠に長さ140間余(約250m)の洞門を掘り、馬車での通行を可能にした。

しかし時代は移り変わって鉄道の時代になり、村人たちの夢は消えた。胸が痛くなるような話だが、これが時代の流れというものなのだろう。

▲「会津ころり三観音」の鳥追観音

国道49号で藤峠を越えて西会津町に入り、小集落の縄沢宿を走り抜け、「会津ころり三観音」3番目の鳥追観音を参拝する。ここではマイクロバスでやって来た団体さんと一緒になったが一人のおばちゃんは、「私も観音さまにあやかって、コロリといきたいわ~!」と皆に聞こえるような声で言っている。

こうして「会津ころり三観音」を巡ってみると、超長寿社会になった今の日本では、じつに多くの人たちが「コロリ願望」を持っていることがよくわかった。

鳥追観音の参拝を終えると、西会津町の中心の野沢宿へ。ここは昔からの越後への玄関口で、ここも「会津街道(越後街道)三大宿場」のひとつに数えられている。

野沢宿の入口には一里塚がある。V-ストローム1000を止め、その前にある諏訪神社を参拝し、野沢宿の町並みに入っていく。宿場の中央にある野沢宿の資料館「ふるさと館」(入館無料)を見学。10年ほど前までは米穀店として使われていたという土蔵造りの建物だ。

▲野沢宿の資料館「ふるさと館」

「ふるさと館」の館内には数々の野沢宿の資料が展示されている。新発田城下から会津若松城下までの街道筋を描いた「越後街道絵図」がある。幕末から明治初期の野沢宿の復元図もある。

野沢宿の復元図を見ると3軒の馬宿がある。馬の背に荷物を積んで会津と越後の間を行き来する光景が目に浮かぶ。運送業の「新発田屋」もある。会津街道の実質的な終点の新発田宿と野沢宿の結びつきの強さをうかがわせる屋号だ。

野沢宿から次の野尻宿へ。上野尻と下野尻の2つの集落。野尻宿にはJR磐越西線の上野尻駅がある。駅のすぐ近くを阿賀川が流れている。会津は四方を山々に囲まれた独立国のようなものだといったが、その会津の大半の水がここを流れていく。

阿賀川は峡谷の「銚子の口」を過ぎると新潟県内に入り、阿賀川から阿賀野川と名前を変える。野尻宿から車峠を越え、鳥井峠を越えて新潟県に入り、「会津街道(越後街道)三大宿場」の津川宿に下っていった。

▲津川宿を行く

阿賀野川と常浪川の合流地点に面した津川宿は日本でも有数の河港として繁栄を謳歌した。ここから阿賀野川の舟運で大量の物資が新潟港との間を行き来したのだ。津川宿の繁栄は明治以降もつづいたが、大正年間に鉄道が開通すると衰退してしまう。

V-ストローム1000で雁木の残る津川宿の町並みを走り抜け、阿賀野川の大船戸と新河戸の河港跡を見る。

▲河港で栄えた津川宿の河港跡

阿賀野川を目の前にする麒麟山温泉の温泉宿「古澤屋」にひと晩泊まった。温泉にどっぷりとつかると、近くの「富久住」で夕食。越後の地酒を飲みながら「麒麟山弁当」を食べた。家族連れの楽しそうな会話が聞こえてくる。「ボー、ボー」と蒸気機関車の汽笛も聞こえてくる。津川駅を通る磐越西線は蒸気機関車が走っているのだ。

▲麒麟山温泉の食事処「富久住」の「麒麟山弁当」

宿場をめぐり、10万石の城下町「新発田宿」へ

▲麒麟山温泉の温泉宿「古澤屋」を出発

翌朝は「古澤屋」の朝湯に入り、朝食を食べて出発。会津街道は津川宿を出ると国道49号と離れ、北に向かっていく。津川温泉「清川高原センター」から諏訪峠を登っていくのだが、舗装路のすぐ脇には旧会津街道の石畳道が残されている。
諏訪峠への道はやがてダートになり、電波塔の立つ峠まで行ったところで途切れてしまう。

▲津川宿から諏訪峠への道

津川宿に戻ると、国道49号で三川まで行き、そこから県道14号を北上。新谷宿で会津街道と合流し、次の綱木川沿いの綱木宿に入っていく。

▲綱木川沿いの綱木宿を行く

下綱木、中綱木、上綱木と3つの集落がつづき、綱木宿を過ぎると阿賀町と新発田市の境の峠に到達。名無しの峠だ。峠を下ったところが赤谷宿。ここは会津藩と新発田藩の藩境。ということで赤谷宿には会津藩の赤谷番所が設けられた。

赤谷宿から下ったところが山内宿。ここは新発田藩領最南の地で、山内口留番所が置かれた。山内宿を過ぎると山中から広大な新潟平野へと下り、米倉、五十公野を通って新発田宿に入っていく。

▲山内宿の旧家

▲新発田駅前に到着

新発田宿は溝口氏10万石の城下町。JR新発田駅から駅前通りを通って、新発田城まで行く。城址公園の駐車場にV-ストローム1000を止め、新発田城を歩いた。

慶長3年(1598年)に築かれた新発田城は、版籍奉還までの270年間、外様大名の溝口氏の居城になっていた。江戸末期には事実上の天守閣の三階櫓をはじめとして11の櫓と5棟の主な門があったということだが、明治新政府の命令でとり壊され、堀も次々に埋められ、今では表門と旧二ノ丸隅櫓、本丸の石垣、それと堀の南半分が残っているだけだ。

「日本海の十字路」へ到着。会津街道を走破!

新発田宿を後にすると会津街道の県道3号で新潟へ。佐々木、内島見を通り、阿賀野川にかかる泰平橋を渡り、新潟駅の近くで国道7号に合流。そのまま国道7号で新潟のシンボル、萬代橋を渡り、新潟古町の本町の交差点へ。

ここは「日本海の十字路」。本町の交差点から信濃川河口の新潟港まで行き、そこを会津街道のゴールにした。

▲信濃川河口の新潟港にゴール!

賀曽利隆

賀曽利隆 冒険家・ツーリングジャーナリスト

投稿者プロフィール

1947年東京生まれ。
1968年から2年間をかけてアフリカを一周したのを皮切りに、バイクで世界の6大陸を駆け巡る。
1982年には「パリ→ダカールラリー」に日本人ライダー初の参戦。1987年には「サハラ砂漠往復縦断」。7度の「日本一周」を成しとげ、「70代編日本一周」を目指している。
ツーリングマップル東北の担当ライダーで、東北の道という道を精力的に走っている。
モットーは「生涯旅人!」

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